Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

「結局、自分のことしか考えない人たち − 自己愛人間とどうつきあえばいいのか」(サンディ・ホチキス著、草思社、2009年)*2

自己愛人間にとっての難問は、厳しい現実を寄せ付けないために、自尊心をふくらませておく方法を見つけることだ。よく使われるのが、歪曲と錯覚、いわゆる「魔術的思考」である。*1

魔術師が儀式を行う意味は色々とあるが、その一つは所謂「魔術的思考」を儀式という特殊な「場」の中に封じ込める事によって上手く活用しつつ、弊害を出来るだけ少なくすることにある。
魔術的思考法は儀式中は必須だ。しかし儀式が終わって日常に帰っても魔術的思考をそのまま続けてしまう人は、端から見れば単なるアブナイ人か厄介な人に過ぎない。更に言えば、それによる周囲からの嫌悪や反感が折角の儀式の成果を損なう事にも繋がりかねない。儀式中に召喚・喚起したあらゆる存在は用が済んだならば必ず追儺しなければならない、というのは魔術儀式における基本中の基本である。
ところが、世の中には儀式など行わなずとも魔術的思考を常に持ち続け現実の認識を歪め続けて生きている人達が居る。それが本書で記述されるところの「結局、自分のことしか考えない人たち」である。
著者はこれらの人達の行動パターンを、キリスト教の7つの大罪になぞらえて7つのポイントにまとめて説明している。

  1. 恥を知らない
  2. つねに歪曲し、幻想をつくりだす
  3. 傲慢な態度で見下す
  4. ねたみの対象をこき下ろす
  5. つねに特別扱いを求める
  6. 他人を平気で利用する
  7. 相手を自分の一部とみなす

このような人々がオカルトや新興宗教の世界に数多く存在するのは常識であるが、実は普通の社会の中にも沢山存在する。しかも、その偏執狂的性格と能力が上手く結びついて高い社会的地位を持っていたりするケースが結構多い。彼らはその地位を利用して巧みに言葉を操り、飴と鞭を駆使して配下の犠牲者達を奴隷として罪悪感無しに潰れるまで酷使するのだ。*2
著者はこれらの自己愛人間の起源を、乳幼児期の親子間の「分離−個体化のプロセス」における自己愛の発達不全に因る「恥の感情を上手く処理できない」ことに対する過敏反応であると説明する。そのネオ・フロイト的理論の是非については議論があるだろうが、その理論を元にした「相手の精神構造が二歳児なみだと思うこと」という記述は、私の身の回りに居る自己愛人間達に当て嵌めてみた限りでは、大変納得の行くものであると思う。
公認ソーシャルワーカーとして多数の患者のカウンセリングを行ってきた著者による本書の記述は、豊富な経験の中から練られたものらしく、かなり具体的で実践的である。特にこの本で最も実践的且つ潔いところは「自分のことしか考えない人達を治そう」などという労力のかかる非現実的な事は考えず、あくまでもその人達に苦しめられる人達の救済を第一に考えていることだ*3。それには、心優しい人が無理矢理自己愛を捨てるような勘違い*4をせずとも済む、という副次的効果もある。世の中には完璧な親も育て方も無いから、正常と言える範囲の自己愛を持っている人もこの本を読んで自分に当てはまる部分が幾らかはあるだろう。そういう人は、この本に書いてある事に時々気を配って、自らの自己愛で他人を傷付けないように気を付ける程度でいい。
著者は自己愛人間から身を守るために下記の四つの戦略を提唱する:

  • 戦略1:自分を知る
  • 戦略2:現実を受け入れる
  • 戦略3:境界を設定する
  • 戦略4:相互関係を築く

魔術に詳しい人間には一目瞭然であるが、これは召喚・喚起の術と全く同じ構造である。身の回りの諸力を用いて対峙する相手の人格的影響力を弱める一方で己の力を及ぼすのである*5。これらの戦略を用いて、著者は様々なケースの解決方法を具体的に提示していく。「強引な上司/教師/親/親族/知り合いの為に要らぬ苦労を強いられている」と感じる人は一度読んでみるだけでも色々参考になるであろう。
ところで、そんな自己愛人間の被害に遭い易い人達の中には、まるで自ら進んで遭難するかのように自己愛人間に引きつけられていく人達が居る。新興宗教やオカルトの業界にはそのような自己犠牲大好き人間達が、日夜、一般人の疑問の目と他の信者の羨望の視線と教祖の寵愛の眼差しを受けながら典型的な自己愛人間である教祖への奉仕活動を行っている*6。この本によれば、その人達もまた冒頭に挙げた人達と正反対の自己愛人間なのだ。ただし、教祖タイプは自尊心を肥大させることによって自己を保っているが、自己犠牲タイプは逆に自尊心を無くし他者に依存することで自己を保つ、その違いがこれら2タイプの行動を分けるのである。自己犠牲タイプは教祖タイプの人間と一体感を持ち、相手の自尊心の肥大を我がものとして感じることで乳幼児期の全能感を取り戻すのである。勿論、無理な自己犠牲は長期間は続かないので、自己犠牲タイプも何れは疲弊してそのまま潰れてしまうか、逃亡して回復を図ってからまた次の教祖に奉仕に行くのである。
上記4つの戦略は、そんな自己犠牲タイプの自己愛人間の人生を変える為の処方箋、と言っても良いだろう。「自分のことしか考えない人たち」に比べて自己犠牲タイプは失うものが大きく、しばしば常人の想像を超える苦痛を味わう。肉体的痛みが肉体を守る為のサインであるように、精神的苦痛もまた自分を守る為のサインなのだ。
精神的苦痛と同時に自分の人生に対する疑問が沸いた人は兎に角この本を読むべし。これは当に貴方の為の本だ。

*1:本書28ページ。

*2:「心霊的自己防衛」に出てきたD.フォーチュンの若い頃の上司はこの典型であろう。

*3:邪悪といっても差し支えない人達を断罪しようとせず、しかし積極的に助けようともしない、そのカウンセラーとしての立場を弁えた姿勢は潔いと思う。

*4:心優しく繊細な人ほど「自己を愛することとは本当に正しい事なのだろうか?自己を省みず他者の為に尽くしてこそ人として正しいのでは?」などという幼稚な幻想に囚われる傾向にあるが、本書に書いてあるように、それは変形した自己愛の顕現に過ぎないのだ。無実の他人を陥れるようなことまでせずとも良いが「サボってる奴らを罵倒して尻を蹴飛ばす」とか「気に入らない奴の鼻っ柱を叩き折る」程度の事は社会常識的スキルとして身につけておかねばならない。Liber OZ曰く「人はこれらの権利を邪魔する者達を殺す権利を持つ。」他人を攻撃する力を持つことは自らとその周囲を守る力を持つという意味で一人前の証である。

*5:これは一種の悪魔祓いであるから共通している面があるのはある意味当然かもしれない。判らない人は三角形と魔法円、魔法円に描かれた神名やシギル、魔術武器、召喚・喚起の目的の吟味と分析、等々が上記の戦略のどういう部分にあたるか考えてみましょう。

*6:クロウリーがある種のタイプの女性にモテモテだった理由はコレであろう。しかし本人は自己愛人間の最たるものなのに、その著作は非常に分析的である・・・妙な冗談や自分語りさえしなければ。まあ、そういう矛盾した存在が人間なのだろう。