Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

心地良い鞭と拘束具(その4)

「私は愛のために分裂させられているのだ。」(法の書:Ⅰ−29)
小さな障害や制約によって隠れた問題が明確に現れる時がある。例えば、歩道における10㎝程度の段差は健常者にとっては気にならないものであるが、一度怪我をして松葉杖を突いたり車椅子に乗ったりしてみればその段差は健常時の高さ3mの壁に等しい存在となる。制約の無い時には見えにくかった社会の中の『不自由』が明確に現れてくるのだ。己に課す禁則はこのような隠れた不自由の存在を明らかにする。
ところで禁則の選び方には注意する必要がある。「チョコ以外の物を食べない」とか「体を洗わない」とか無茶な事を決めても全く意味は無い。栄養失調で死んでも10m先から悪臭が漂う有様になっても、誰も「真の意志を全うした者」として褒め称えはしない。馬鹿だと思われるだけだ*1
FraterCSさんの1/11のブログ*2に書かれているようにセンスの問題と言ってしまえばそれまでだが、ここは重要なポイントであるので特に注意を喚起しておこう。
そのポイントとは「他の方法で代替可能だが必ず行わなければならない事を禁じる」という事である*3。大切なのは何かを行う事であって禁則を言い訳に停滞する事では無い*4。その禁則の実行が貴方に困難をもたらすようであれば、そこには貴方を真の意志に向かって進める為の『愛』があるのだ。
例えば「『そして』という言葉を使わない」という禁則を作ったとしよう。貴方は『そして』の代わりに『それから』とか『更に』などの言葉を使って言い換えをせざるを得ない。もしも貴方がその言い換えに困難を感じたならば、今までの貴方が「安易に『そして』という言葉を使う」という習慣の奴隷に意図せずに成っていた事に気が付く筈だ。
そこには真の『愛』がある。『そして』以外の適切な言葉を使いこなすスキルを己に結びつける『愛』が、貴方を真の『自由』へと導くのである。
制約の無い自由とは、実は認識されない数多くの『不自由』に囚われた状態に他ならない。己を縛りつつ前進する為に鞭打たれる事だけが、真の『愛』とその先にある真の『自由』をもたらしてくれるのである。
縄と拘束具の用意は出来たか?鞭打ってくれる愛しい女王様は見つけたか?
皮膚に喰い込む縛めと鞭の衝撃が心地良く感じられる時、新しい世界が開ける筈だ。
(心地良い鞭と拘束具、了)

*1:オタク界にもオカルト界にも「話はいいから先ず風呂に入れ!」と言いたくなる奴らがいる。共通する何かがあるのだろう。

*2:http://d.hatena.ne.jp/FraterCS/20050111

*3:可能であれば粗雑な行為がより洗練されるような禁則を作る事。「汝の狂喜を洗練せよ。」(法の書Ⅱ−70)

*4:『Because』を繰り返し言い訳を吠えるばかりの『犬共』とは関係を持ちたくも無い。さっさと死んでくれ。でもこいつら、自己保身にだけは人一倍長けているんだよな。