Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

最後の晩餐と魔術の進化

最近イタリア絵画に接する機会に恵まれたが、中世からルネッサンスにかけてのイタリア人が如何に聖母子に萌え萌えだったのかが厭という程感じられてお腹一杯になった。マンマミーアの国であるから致し方の無い事*1、と何かで読んだ気がする。
それはそれとして、一方で「メディアの進歩が如何に人間の精神に大きな影響を与え得るのか」という事も今回非常に強く考えさせられた。
私は美術には詳しくないので間違っているかもしれないが、以下に考えた事を述べてみよう。
中世キリスト教絵画は寓意と象徴に満ちており、それはそれで完成された様式なのではあるが、神聖なるものを上位に大きく描くその様式は、神と教会の権威を表わす事が第一である印象を受ける事がままある(所々、画家達の細かい工夫と努力は伺えるのだが・・・)。
ところが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に代表されるルネッサンス絵画によって遠近法や光の処理、そして人物の人間的な表情や動作の描写が取り入れられた事により、聖なる絵画と観る者の関係は一変する。あたかも観る者に聖書の一節や聖人の逸話にその場で接しているかのような臨場感を与え、より一層大きな感動を与えることが可能になったのである。それは、紙芝居が映画になった程の大きな変化である*2
その影響はベアート・フラ・アンジェリコ*3が描いた、修道院の瞑想用の僧房の中のフレスコ画にも見受けられる。
フラ・アンジェリコの絵は、敢えて言えばやや漫画チックに様式化された寓意画なのであるが、描かれる人物の優しくも聖なる威厳に満ちた表情と立体感のある彩色によって中世の寓意画よりも観る者の感情移入を容易にしている*4。その効果は、キリスト教信者でない不信心な私にすら敬虔な気持ちをもたらす程である。
要するにメディアの表現技術が進歩すればするほど、オカルト的作業の際に象徴を視覚化する為の労力を大幅に軽減させるようなコンテンツを制作する事が可能になるのである*5。そして最新のコンテンツを利用する事で、今まで視覚化に取られていた労力を更なる精神の高みへ向かう力へと振り向ける事が可能になるのだ。それは何れ魔術作業そのものの進化をもたらすであろう。
前々から紹介しているTaylor Ellwoodの「Pop Culture Magick」はこのようなメディア技術の発展を積極的に魔術に取り入れることを主張している*6
魔術関連図書のリスト化をしている魔術関係者は多いが、今後は魔術本だけでなく映画などの関連コンテンツ*7のリスト化なども非常に実りのある作業になるかもしれない*8

*1:日本だと仏様や観音様は男性の筈なのに妙に色っぽいしね。文化の違いだ。

*2:特に大判の絵をやや離れた場所から観ると違いが歴然として判る。

*3:何で聖人(セイント)じゃないんだろ?福者(ベアート)に列せれたのも割と最近(1982)だし。人が良くて才能があるだけではダメで、やっぱり殉教するとかノーベル平和賞とるとか派手なイベントが無いと認められないのかなあ?と不信心な発言をしてみる。

*4:三畳程の僧房の壁に窓よりも一回り大きく描かれたフレスコ画は、キリストの生涯の一場面に聖ドミニコが参加している構図になっている。要するにキリストの生涯にドミニコ会の修道士が立ち会っているという観想用のフレスコ画である。狭く薄暗い僧房の中で眼の前一杯に広がるフレスコ画の威力を想像して欲しい。

*5:うじゅぱ老師のように天使や悪魔の3D画像を制作する事が、今後魔術師にとっての必修科目になるかもしれない。

*6:そしてアニメやゲームやマンガは「現代の神々」が宿るメディアである。

*7:セシル・B・デミルの『十戒』などは非常に使えるコンテンツだ。

*8:個人の財力と保管場所には限界があるので、魔術結社みたいな集団だとより一層効果が上がると思うのだが・・・