Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

祈りの力

昨年の秋頃に小学校の給食の時の「いただきます」を巡っての論争があったらしいが・・・
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20060121ddm013100126000c.html
2ちゃんなんかの関連するスレを覗いてみたが、私が見た限りでは皆、形式論と建前論ばかりであった。
「いただきます」は集団で食事をする際の号令であると同時に材料となったモノ及びそれらを作った人や料理を作った人への感謝の言葉でもある。また手を合わせて拝む行為は勿論、キリスト教徒の食事の前の祈りのそれと一緒である。感謝や祈りという行為には前提としてある価値観が含まれるが、それは思想・信条・宗教観と切り離す事が出来ないものである。従って、こういった行為を「宗教的ではなく当たり前の事」と言い放ち強制するのは無神経なファシズムに則った言動に他ならない。
もっと実質的に、「いただきます」にどういう利点があるのかについて考えるべきではないだろうか?抽象的な快/不快でなく、誰にでも判るような現実の利益を考慮すべきではないだろうか?
建前では愛を歌いマモンを否定する現代社会を実質支配しているのは、結局のところマモンである。現在の貨幣経済はほぼ世界中をカバーしている事から、マモンは異教徒同士の間でも信仰に値する現代の絶対神であると言えよう。従ってこういう価値判断は出来るだけ金に換算して考えやすい物質的な効果を取り扱う方が、色々な人達の間での同意が得やすい筈だ。
食事の直接の目的は肉体を動かし維持する為の栄養素を体内に取り込む事である。しかし、同じ食物を口の中に入れても常に同じだけの栄養素が体内に取り込まれるとは限らない。食物にかかるコストに対するパフォーマンス、即ち栄養素の吸収効率を向上させる為の大きな要素として、主に食べる側の咀嚼の程度と消化器官の調子の2つが挙げられるだろう*1。具体的に言えば、充分な咀嚼の為には意識的な努力が必要であり消化器官は精神的ストレスによって働きが鈍る為、栄養素の吸収効率を上げる為には食前に咀嚼の為のインセンティブを向上させつつストレスを減らすような準備が必要となる。
適切な集中や瞑想が心身のストレスを減らし自律神経・免疫系の働きを強化する事が今日の医学では知られているが、食事の前に適切な瞑想を行う事はそのような効果を得る為の一つの手段となりうる。
祈りは最もシンプルで広く普及した、非常に効果の高い集中および瞑想の形態である。両手を合わせ姿勢を正し頭を垂れるアーサナを取る事により雑念となる身体の余計な動きを押さえつつ、高貴なモノに想いを馳せる事で低俗な想念を排し精神の集中を計るのが祈りである。マザー・テレサのように祈りによって心体を整え活力を得ていた聖人は多い。
日本の仏教的価値観を持った人達が食事の材料となった生き物達の命と関連の人々の労力に感謝し「いただきます」と唱えて祈る行為、或いはキリスト教徒が食事を得られる恩恵を神に感謝し祈る行為は、そういった人達にとっては真剣に行えば行う程、ストレスの低減と咀嚼へのインセンティブという実質的な効力をもたらすであろう。反対に、「いただきます」を言う事が単なる手続きに過ぎず却ってストレスに成る人達にとっては逆に食事を阻害する要因にしかならない、という至極当たり前の結論も同時に導き出せる。
結局上記のリンク先で永六輔氏も語っているように、「いただきます」を言うか言わないかよりも、如何に食事を無駄にしないかの方が大切な事なのである*2
翻って日本の魔術界を見ると、怪しげなSigil魔術などよりも遙かに簡単で確実に効力を発揮しうる祈りの力についての考察が少ないように思える。日拝にしてもThelema教徒の食事の祈り*3にしても、邦訳文献はあるが形式や道徳論ばかりで、医学・生理学に基づいた実質的な効力についての考察はまだ見た事が無い。今後の研究が待たれるポイントの一つであろう。

*1:栄養素の吸収効率という点だけ考えれば「食事の回数を1日2回にする」という話もあるのだが、小学生の場合は栄養不足に陥る危険があり、また消化器官に対する負担も大きい事、更に別な意味でストレスが溜まる事もあるので此処では論じない。

*2:学校教育には「集団生活を学ぶ」という面もあるが、多様な価値観を持った人々の為の集団ルールというものを日本の教育ではあまり想定していないのだろう。

*3:日本の某OTOの支部の資料を見たが、その中のNPなんたらとかいう奴は形式でしか魔術を語れない○○の典型にしか見えない。