Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

招命

クリント・イーストウッド主演の『ダーティハリー』シリーズを見た事のある人は多いだろう。無辜の市民の命を助ける為に、法律や警察の規則を破ってでも悪人に対して実力行使をするハリー・キャラハン刑事の姿は、多くの人達にアウトロー的ヒーローとして支持されている。
だが劇中のハリー刑事は、単なる無頼な正義の味方ではない。
ダーティハリー2』には法律では裁けない悪人を処刑する殺人集団が出てくるが、彼らがハリーを仲間に誘う場面で、ハリーはきっぱりと「お前等と一緒にするな」と言って断る。ハリーは自らをスーパーマンのような万能の正義の味方ではなく、警察官−国家権力を背景に法的に治安を司る権限を職務として賦与された者−と認識しているのだ。
だが彼にとって警察官とは、単に法規を遵守する存在ではない。賦与された力を行使して市民の命を守る、それが彼にとっての警察官という存在であり、また人々の求める理想的な警察官の姿の一つでもある*1。「市民の命を守る」という彼の職業倫理に従って、彼は『時として』自分の責任に於いて法規を破る。その行為は、彼の正確無比の射撃の腕前と刑事としての超人的行動力があって初めて出来る事だ。そして『ダーティーハリー』や『ダーティーハリー2』のラストシーンで彼が警察のバッジを放り投げるのは、彼が自らが行った規則違反に対して、自ら「警察官として」賦与された権限を返上し責任を取る決心を表している。
『時』と『場所』も重要なポイントである。緊急時には平然と犯人を射殺するハリーも、平時には悪人達と愛想笑いを浮かべながら冗談交じりの会話を交わしたりもする。つまり、『ハリーの周囲』で『無辜の市民の命が失われそうな時』、ハリーが持てる責任に於いてその権限と力を発揮し『警察官としての自分』の役割を引き受ける事で、『ダーティハリー』の『世界』は正しい方向に導かれるのである。
このような自らの個性や能力および時と場所に応じた役割というものは、勿論、職業上のモノばかりではない。例えば、家族の中での『父』や『母』、或いは趣味のグループの中での『リーダー役』や『幹事役』等々が挙げられるだろう。
これらの役割は、大まかな約束事として決まっているものの、役割を担う人々の個性と能力およびTPO、そしてその人が『どうありたいか』という意志によって、その詳細は千差万別となる。役所や企業のような組織がしっかりとして個人的意向について制限の多いところすら、管理職が変われば職場の雰囲気はがらりと変わるものだ。
また、人によっては否応無しに役割を担わされる事もある。事故や犯罪、或いは病気や偶然のアクシデントによる逃れられぬ運命の顎に捕らえられる場合だ*2。だが、その運命の顎の中でも僅かながら『自分であること』を守る為に足掻く事が可能な場合がある。その足掻きは、時として多くの人々の心を動かす*3
そして一部の勘の良い人や頭の良い人は、周囲の流れを見ながらこの運命の流れを先取りし、人知れず或いは人に先駆けて可能な範囲での選択を行う。
これらの役割は全て、自らの意志による選択の余地があるか無いかに関わらず、何らかの意味で他者との関係性或いは人々が形作る『世界』を支えている。もしも全員が可能な限り『逃げる』事を選択した場合、比喩的な意味でもリアルな意味でも『世界』は崩壊する*4。そして戦うべき者の逃走又は敗北は、『世界』の後退または敗北となる。
更に、感と頭の良い能力と理想のある人は、運命の流れの中で自ら『世界』を支え自らが『良い』と思う方向へ導くべく、その役割を自らの意志で引き受ける。
だがその役割は、運命の流れの連鎖の中で、時として人間では背負えぬような途轍もない重荷になることがある。しかし自分以外にその重荷を担える者が居ないと認識している者は、これから自らが歩むゴルゴタの丘への道に恐れを感じつつ、自らを含めた『世界』を支える為にその重荷を背負うのである。それが所謂神の『招命』である。例えばユダヤキリスト教預言者達の多くは、神の招命に対して「辞退しまた逡巡せしも、ついにこれを受くるの余儀なきに至ったのである」*5
それは指輪物語で主人公のフロドが担ったような、地上の栄光と歓喜を全て放棄せねばならぬ程の重荷になる事もある。だがフロドは、逡巡しながらも、誰からも強制されずにその重荷を背負った。その重さ故に逃げる事を責める者は他に誰も居ない状況であったが、フロドは己が卑怯者となる事を許なかったのだ。フロドは『世界』を含めた『自分』を失わぬ為にその重荷を引き受けたのである。
招命或いは運命の顎は、人生において何時何処で出会うか、誰にも判らない。人によっては、知らぬうちに任務を果たしているかもしれないし、重荷に耐えきれずに逃げ出して一生後悔しながら生きる事になるかもしれない。W.E.バトラーの『魔法修行』に書いてあるように「人生そのものが試験してくれるだろう」。
卑怯者である事が人生の基本の私も、運命の時には、出来る限り『自分』らしくありたいものだと思う。

*1:だからといって法や規則が間違っている訳ではない。法や規則は本来個人のミスや責任を全体でカバーする為にあるものだ。『ダーティハリー』は、当時のアメリカにおける法や規則のバランスが容疑者の人権保護に偏り過ぎているのではないか?という批判を込めて作られたものだった、という発言が『2』のDVDのインタビューの中にあった。

*2:北朝鮮への拉致被害者は、本人の意向と無関係に外交問題の中で役割を担わされるケースである。

*3:最近では、イラクの反政府ゲリラに捕まった人達の様々な死に様が良い例だろう。

*4:「誰も逃げてはいけない」という事では無い。リスク分散の観点から言えば、逃げる役、或いは逃げ道を追求する役割も必要だ。だが、誰かが殿(しんがり)を引き受けねば逃げ道さえ塞がれてしまう場合もある事を忘れてはならない。

*5:http://f19.aaa.livedoor.jp/~vchurch/roma/roma003.htm