Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

世界をよくする現代思想入門 ちくま新書 高田明典 著*9

久しぶりに良い本を読んだ。
最初の方で「サピア・ウォーフ仮説」があたかも真理かのように話を進めるので怪しい本かと思ったが、最後迄読むと結論にスムースに話をつなげる為の方便として上手く働いている事が判る*1
この本は「現代思想は道具であり、哲学とは違って遊びには使えない」というコンセプトの元に、「世界をよくする」という目標に対する試行錯誤を重ねながら現代思想の発展の歴史を追体験していく構成になっている。
我々読者は、対立する二物から『言語』によって世界の構造を捉え、その二物の間の境界線を脱構築しつつ、「世界をよくする」方法を現代思想という道具を用いて模索していく。
だがやがて「世界をよくする」為の追求は、現在の思想家達の苦闘と同様に次第に明確さを失っていき、ポスト・モダンの、神ならぬ人間が不完全な情報に基づいて自らの全てを自己責任で決め、その決定を引きうけて孤独に死んでいく暗い迷宮に到る*2
だが、著者は敢えて『言語』を手がかりに前に進んでいく。ヴィトゲンシュタインの『言語ゲーム*3およびハイデガーの『共存在』などの言語哲学の流れに著者は注目し、ジャン=リュック・ナンシーらの『共同−体』の概念に到る。
そこでは主体と客体の区分は、最早一個の人間の単位とは全く異なるモノになっている。各個人の自我が、言語に代表される関係性によって繋がり形成される世界*4−『共同』体が主体であり、『他者』である肉『体』に自我が宿ったものが人間である。自我はその『共同』体を、即ち『世界』を「引き受ける」事によって、それを支える役割を果たす。「世界を引き受ける」事とは、私なりにこの本の主張を要約すれば、無根拠な『言葉』(或いは関係性)に根拠を与える事だ。それは自分を表す名前に対して「自分である」と主張する事に始まり、自分が『自分』であるために、人によっては世界が『世界』として成り立つ為に、周囲を含めた関係性そのものを引き受けることである*5
『共同』体は、正しい神があるべきモノとして与えたようなものでは、決してない。それは時と場所と世界を構成する人々の営みによって時々刻々変化していくものである。よって「世界をよくする」という目標に対するこの本の(暫定的な)回答は「(世界を引き受ける)私の周囲xメートルかの世界を、今私が正しいと思う方向へ変化させる」となる。これは「全ての男女は星」「汝の意志することを行え」「意志の下の愛」というThelemaにおける真の『意志』と非常に近い考え、いや殆ど同じモノと言って良いかもしれない。
私見ではあるが、日本人は昔から西洋人とは逆にこの『共同』が主体であると認識していたと思う*6。しかし現代では個の人間としての強さが逆に求められている。『共同』体を単なる無責任な烏合の衆以上のものとする為には、「世界を引き受ける」者の『自我』の力も必要なのだ。西洋と東洋のクロスオーバーはこういうところにも出てくるのだろう。
エリファス・レヴィからGDに到る近代魔術は古代の顔をしてはいるものの、基本的に近代思想に基づいた魔術であった。霊や神の存在を真理でなく作業仮説として扱うのは古代ではあり得ない事だ。しかし万物照応表は構造主義より50年早かった。つまり19世紀にはまだ魔術は先進的であったのだ。ところが21世紀の現在では、より良い世界と思想を模索し続けた現代思想に比べて魔術は、今の時代精神に対して大きく遅れを取っている様に見える。例えば、混沌魔術は現在最も先鋭的な流派であり、良く知られているようにポスト・モダン思想に多大な影響を受けた魔術であるが、魔術から思想への逆流は殆ど無いのが現状だ。
魔術は、単に世の中の見方の一つであり方法論の一つに過ぎない。魔術だけが特別、或いは独特で他のモノと関係ないものだと思う事は、他分野の様々な情報が入る情報化社会の現代では単なる思い上がりとしか、私には思えない。元々、様々な分野の成果を取り入れ綜合的にまとめる役割を担っていたのがヘルメス学であり魔術で在った訳だ。ならばもっと積極的に現代の様々な試みや考えを取り入れる事で、より一層、魔術そのものも発展し、広がりを得る事が出来るのではなかろうか。

*1:サピア・ウォーフ仮説を下手に使うと「この世の中のモノで言語化出来ないモノは存在しない、或いは存在する意味が無い」という極端な考えに陥り易い。しかし、現代思想の大家や大哲学者がペットと人間の言葉や動物の言葉でコミュニケーションをとるかどうか考えてみれば、その考え方が馬鹿げている事が判る筈だ。

*2:そこに自由はあるが、それを皆が納得出来る形で得られる者は己の命で全ての責任を購う覚悟の出来た者だけだ。更にその自由は人類の歴史上の歩みを否定することによる自己の一部否定を内包した自由であるが故に、その肯定は容易な事ではない。だがそれは人間の生に対する考え方の一つの極北であろう。

*3:ヴィトゲンシュタインについては私はまるっきり初心者ではあるし、うじゅぱ老師が言うように魔術初心者向けじゃないが、特に現代に於ける高等魔術を深く考えようとする時には無視できない存在だと思う。

*4:言語のみならずあらゆる情報や力の遣り取りを含めれば、これはアストラル界の概念そのものになる。

*5:これの最も高度なものが神秘学で言うところの『招命』である。本書の結論の「周囲xメートル」の範囲が途轍もなく巨大になったものだ。これについては次のエントリで述べよう

*6:例えば、『世間様』或いは自然を含めた関係性である『お天道様』など。