Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

葬式魔術

江戸時代、仏教寺院は宗教統制の為の寺社奉行の下の体制に組み込まれ祭儀と檀家の管理をする組織になった。しかし江戸時代が終わっても相変わらず祭儀に明け暮れるだけで元々の目的である生きている人間へのケアを軽視し形骸化した多くの仏教教団は、揶揄を込めて『葬式仏教』と呼ばれる。
宗教は、生きている人間の心から離れると、形骸化する。
では魔術はどうだろうか?魔術は真面目に実践していれば大丈夫・・・だろうか?
いや、そうではない。ある種の魔術は、『ある意味』真面目にやればやる程、形骸化の危険を孕んでいる。
願望達成術などの、高尚な魔術師達が軽蔑を込めて『低次の魔術』と呼ぶようなものには、あまり危険はない。その効果は多寡が知れているからだ。精々、元々欲望の強い人間がそのまま欲望に捕らわれて後戻り出来なくなる程度だ。自業自得である。逆に、『高等魔術』『密儀』などと呼ばれている魔術の方が、高貴な魂と青雲の志を持った魔術師を、その『密儀』の『成功』によって生ける屍へと変える可能性を秘めている。
エレシウス儀礼のような古代の密儀宗教は、死と復活を象徴した儀礼によって参入者に死後の世界の平安を与える。それによって参入者は目先の己の肉体の死に囚われずに広い視野と勇気を持って生きる事が出来るようになる。同様の死と復活のモチーフは魔術の伝統の深部に根差している。問題は、エレシウス儀礼の様な秘儀が作られた時代と今とでは、特に先進国に於いては、『死』の意味と重さがかなり異なっている、という事だ。

ああ!ああ!死よ!死よ!汝は死を切望するであろう。死は禁じられている、おお人間よ、汝らにとっては。*1

少子高齢社会となった先進国では、ある程度の健康と財産を維持していれば、ある程度の年齢までは事故以外では簡単に死ぬ事はなくなる*2。先進国では生に倦みアノミーとなるが、かといって死ぬ事も出来ない若者が大勢居る。そのような生に倦んだ者が救いを求めて魔術の道に入り古代の密儀によって死後の平安を与えられたところで、其の魂に救いはもたらされない。至福という名の真の絶望と天国という名の究極にして永遠の地獄がもたらされるのみである。生に倦んだ者に永遠の命を与える事は、その魂を過剰な『生』の中で腐敗させる事であり、人間の魂に対する究極の汚辱である。『死』だけが、その者を刹那の解放へと導く真の友であるが、来るべき時まで引き裂かれ遠ざけられてしまうのだ。
オシリスのアイオンに於いては己の命をより多くの命の為、己の属する集団の為に使う事が最重要課題であった。そして集団の生存の為に作られた社会的枠組みの中で、或いは異なる枠組みを持つ集団の間の対立の中で、個人の為すべき役回りは決まっていった。永遠の命を与える密儀は、個人の命を集団の命へと変換する術式を真に理解させその役割を全うさせる為に最も適した形態だったのだ。しかし、人類の生産性が向上し死の危険が遠ざかったホルスのアイオンに於いては、己の生を何に使うべきか?という問いに対して答えは与えられない。それは自分自身で発見し、実行しなければならない。それは当に(生きるのに精一杯ではない)高貴なる者の義務、ノブレス・オブリージである。その義務を果たす前に永遠の命による安寧を求めるのは、自らの魂を安楽なあの世へ送り、徒に生を貪る生ける屍となる事に他ならない。
高貴なる者の魂を安楽な世界に導き、その者を精神的死者に変える魔術。まさしく『葬式魔術』である。私個人としては、多くの『高等』魔術結社が廃人を製造する精神の葬儀屋にならない事を祈るばかりだ。

*1:Liber AL II:73.

*2:オリジナルGolden Dawnの団員の殆どが中産階級以上の暇と金をもてあましていた人達だったのを忘れてはならない。