Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

『「みんなの意見」は案外正しい』J.スロウィッキー著:角川書店*4

この本の題名はインチキだ!JAROに訴えろ!!!
この本の内容は『「みんなの意見」は案外正しい』なんてものじゃない!『案外正しい』どころか『一番正しい』というものだ・・・ただし条件付きで。
この本によれば、集団の各構成員が、多様な考えを持ち(『多様性』)、他人の意見に容易に左右されず(『独立性』)、それぞれの知識と経験に基づいた判断を(『分散性』)、一つの意見として集約したとき(『集約性』)、その意見は殆どの場合正しい。より詳しく言えば、集団が単なる個人の寄せ集めではない互いに信頼関係を持ったものならば、『多様』で『独立』した個人の『分散』した情報を一つに『集約』することで最も正しい意見を導く事ができるのだ。更に、たとえ構成員に専門知識が足りなくても、その正しさの精度は長年訓練を積んだエキスパートのモノをも上回る事があるという。
この本の原題は『The Wisdom of Crowd』(群衆の智慧)である。従来、群衆といえば『群集心理』などの言葉に代表されるように、一人一人の個人は賢明でも集団になると衝動的な考えに同調して暴力的或いは愚かな行為をし易いものと認識されていた。また『衆愚』という言葉に見られるように、一般の人たちの知見は論評するに値しないもの、という見識が専門家や知識人にあったのも事実である。だが、この本では雄牛の体重の推測やスポーツ賭博や株式市場などを例にとって、それらの『常識』とは違う群衆が持つ最良の力を示している。
専門家が意外とあてにならない理由は、彼らが多くの場合非常に狭い部分の専門性しかない癖に自信過剰で知らない事まで判断しようとする事にある。だからといって専門家が不要な訳ではない。例えば、自然科学の世界では専門家同士の協力と信頼なしには最早研究が出来ないところまで分野や仕事が細分化されており、また、多数の共同研究者が居る科学者ほど良い業績を挙げている、という事が良き群衆の智慧の例としてこの本に書かれている。専門家は、その分野の専門家として『多様な』意見の一翼を担い、その是非を常に全体に問うていく事により己の存在価値を示し、且つ己の見解を更にシェイプアップする事が出来るのである。
ところで、世の中には集団としての意見をまとめる為に何でも話し合いで解決しようとする人が居るが、この本によれば、そのやり方では集団の智慧による答えを得る事が出来ない場合がかなりある。何故ならば、話し合いをする内に集団の構成員が互いに影響し合って意見が均一になることが多いからだ。特に小さな集団では、声の大きな人の意見に引っ張られて極端な意見にまとまり易い傾向がある。そうならない為には、簡単に集団の意見に同調しない頑固者や集団の意見に逆らう天の邪鬼の存在が重要になる。反対意見がある、という事実が集団の他のメンバーに「多数派の意見と異なった意見を言っても良い」という印象を与え、結果として集団内の意見の多様性が保たれるからだ。
集団の智慧を導くための4つの条件『多様性』『独自性』『分散性』『集約性』を満たすのは簡単ではないし、この本にもその4つを満たせなかったケースが沢山出てくる。しかしこの4つの条件は、ニーチェクロウリーなどの個人とその意志を重んじる哲学の流れの延長上にある帰結でもあるといえるのではないかと思う。そして国際社会は個人の権利(およびその代償としての自己責任)を重んじる方向へと着実に向かいつつあり*1、自己確立した個人が作る集団の調和がもたらす利点についても徐々に認識は広まっている。
例えばグーグルなどの先進的な企業はテクノロジーの力によって『集約性』を全世界規模で実現させるために研究を続けており、その成果は既に客観的なものとして現れつつある*2
「すべての男、すべての女は星である。」*3
個性と全体性の調和、それはThelemaにおける星々と天空の女神ヌイトの関係に他ならない。各自が確かな個性を発揮し、それらを全体で調和させる事で、神秘的な現象など起こらずとも世界は良き方向に向かうのである。
情報メディアが貧弱かつ教育を受けた人材が少なかった時代、オシリスのアイオンに於いては「少数の『神』或いは『救世主』が愚かなる大衆を導き、その全ての責任を背負って死んでいく」事には社会の中の人材の有効活用という面で確かに意味があった。だが現在のホルスのアイオンに於いては、少なくとも先進国に於いては大衆の知的レベルはかなり上がっているし情報メディアも充分発達している。今の大衆は必要な情報を得て判断することが、少なくとも昔よりは適切に出来る。
このような時代における魔術修行の目的とは超人的で神秘的な力によって人々から崇められる『神』や『救世主』や『達人』を作り出す事などではない。そんな事は時代遅れだ。古来、魔術が『王者の学問』であったのはそれが『王』を育てる学問であったからだが、現代の『王』達とは少数の孤独な者達とは正反対の存在なのだ。
認識力・感受性・思考力を鍛えながら己の個性と意見につねに磨きをかけ、必要な経験を積み、世界のどんな個性とも対等に渡り合えるだけの表現力と行動力、そして全体への信頼と調和への志を持った人間を育てる事が、現代における魔術の存在意義であると私は思う。魔術の訓練体系には元々それだけの広がりがある。それを生かすも殺すも、今現在魔術に関わる者の心がけ次第であろう。
世界を良い方向に変えるには神も救世主も奇跡も革命も要らない。互いに信頼しあって多様な個性と個人のあり方を認め、全体の事を考えられる人間が増えればそれでいい。
最後に訳者と出版社に一言:「参考文献と注を削るんじゃねえぇ馬鹿野郎ぉ!!」*4

*1:勿論、個人の権利と自己責任は信頼関係を担保する為の透明性及び公平性とセットである。透明性と公平性の無い『自己責任論』は強者による弱者切り捨ての論理以外の何物でもない。

*2:有名な例であるが、グーグルで『売国テレビ局』でググると・・・ちなみに2年位前からこのキーワードでの検索順位の2位以下に落ちていないらしい。ちなみに現在『売国新聞社』でググると・・・グーグルでは各Webページのリンクの状況から該当の言葉に最も適合しているページを自動的に検索結果のトップから順に持ってくる仕組みになっている。まさにコレはインターネット上で主張する人たちの判断を集約した結果である。

*3:Liber AL,I:3.

*4:マジで資料的価値の高い本なんだから、せめて参考文献だけでもWebで公開して欲しいなあ・・・原書買うしかないか・・・