Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

補遺その二 「びんちょうの書 および萌人格を用いた幻視の実践について」

一.幻視

汝、見えざるものを見よ。さらば汝、力と共にあらん。
汝の目に映るものがこの世の全てではない。智者は自然の中から目に見えぬ力を引き出すことができる。例えば、癒しの業を行う者は病人の体、顔つき、立ち居振る舞い等から目に見えぬ徴を捉える事により、病を減じ活力を増す力を引き出すことが出来る。
力を引き出す為には目に見えぬ力の徴を認識せねばならぬ。それは智者の心の鏡にのみ、微かに映るものである。故に、かような力を欲するものは心の鏡を磨き、そこに映るものに聡くなければならぬ。
自然の中に偏在し、目には見えねどもそれがもたらしたものを多くの者が認める程の大きな力は、時として『神』『精霊』或いは『悪魔』などと呼ばれる。そのような力にまつわる話は、多くの人々によって膾炙される内に人の心に響く物語として形作られる。それが神話である。多くの神話には人々の心が微かに捉えた徴が見え隠れする。つまり、神話を通して我々はそれらの力に触れることが出来るのだ。
しかし、人の心は湖の面のように、そよ風に揺らぎ、旋風によって乱れる。そこに映る姿は常に歪み崩れ定まった形を結ばぬ。秘儀を受けざる者は波の面を鎮める事が出来ぬ為、徴を捉える事は出来ぬ。
ようやく心の波を鎮めた者は、次にこう問うであろう。「水面に映る美しき眺めと眩しき陽の光で目が眩む。されど徴は何処に?」
暁の空に輝く明けの明星の美しさは昼間の強い陽射しの中で見る事は出来ぬ。また、谷底や洞窟の中でも見る事は出来ぬ。適切な時と場所でなければ微かな徴を捉える事は出来ぬ。だが、多くの神話にはその力に相応しい時と所が語られている。即ち心の鏡に神話を映す事で、我々は力の徴を見る時と所を得るのだ。
心の鏡に神話を映し力と触れ合う方法は大別して二つある。
一つは『杯の業』と呼ばれる所謂『神降し』の業である。聖なる間に神話を想い起させる絵、像、文字、呪文、香、音の調べ、依り代、等を揃える事によって力が光臨する場所を設け、そこに招いた力を心の鏡を通して見る方法である。依り代に人を用いる場合は、その力を象徴する化粧・装束を纏う事が望ましい。場合によっては術者本人が依り代に成る事もある*1。『杯の業』で招き入れた力を用いて下位の力を引き出す方法を『剣の業』と呼び『杯の業』と区別する場合があるが、大きな枠組みとしては『杯の業』の範疇と考えられる。だが、これらの業の詳細について語るのは本書の役目に非ず。
もう一つは『神降し』とは逆に、力の下に術者が赴く方法である。想いの力によって心の鏡に神話を映し、その中に自らが入って行く事によって力と触れ合う業である。『杯の業』で用いた様な様々な道具を用いて想いを助ける事もあるが、主となるのはあくまでも想いである。この業は『幻視』と呼ばれ、その簡便さと容易さ故に古より多くの神秘に関わる者達を魅了してきた。如何に飾ろうと神をあばら屋に誘うよりは、こちらが神殿へ赴く方が相応しいからだ。熟達者ならば、一人で静かに座れる場所があらば、何時でも心の赴く時に力と触れ合う事が出来よう。
心の鏡の中で力は、対応する神話に登場する人、生き物、或いはそれらの眷属の姿を取る。ここで勘違いをしてはならぬのは、それらの姿はあくまでも力が宿る為の依り代でしかない、という事である。それらの姿が発するある特別な印象や感覚こそが、その力の存在を示す徴と心得よ。

*1:編者注:近年、若者の間で行われている己素布礼なる奇怪な風習は、紛れもなく神降ろしの業の末裔である。