Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

目的指向の生命の木の構築について

Even if there is a heaven when we die,
endless bliss would be as meaningless as the lie
that always comes as answer to the question
"Why do we see through the eyes of creation?"
(from "Childlike Faith in Childhood's End" by Peter Hammill (Van der Graaf Generator)*1

生命の木とは、以前にも論じたよう*2に神の創造の過程を模式化したものと考える事ができる。
イデアまたは原型たるアツィルトの世界から物質世界であるマルクトに神の意志が反映されるまでの『流出』の過程は、ケテルからマルクトに振られた番号に沿って順々にセフィロトを生成する道筋によって表される。
生成されたセフィラ同士の関係はその間を結ぶ『小径』(Path)によって表されるが、これはヘブライ文字の数と同じく22本あり、10のセフィロトと併せて『32の小径』と呼ばれる。
この『小径』については、『形成の書』などの基本的なカバラ文献において明確な文字と『小径』との対応が示されていないために、その象徴的帰属については多くの議論が為されてきた。
現在魔術界で標準的な生命の木の小径とヘブライ文字との対応は有名なアタナシウス・キルヒャーの図版に出ているものである*3。しかし魔術界以外では、例えばベン・シモン・ハレヴィの著作を見れば判るように、この帰属が必ずしもカバラにおける決定版として絶対視されている訳ではない*4
近代の魔術師の中でこの問題に対して最も大胆なアプローチをしたのは、かのアレイスター・クロウリーの魔術的息子、フラター・エイカドことC.S.ジョーンズである。だが、彼の試みについては単なる象徴体系の逆転である以上の事は論じられていないことが多い。
本当に彼の試みとはそんなに底の浅いものなのだろうか?
まずは『QBL』における該当のエイカドの記述を見ていこう。

カバリストによれば、《セフィロト》は(第1章の図に示したように)<ケテル>から<マルクト>に向かって降りる《炎の剣》あるいは《稲妻の閃光》によって流出したという。さらに彼らによれば、その次に《叡智の蛇の上昇》があり、このようにして《小径》が形成されたという。*5

この古の神話に対するエイカドの疑問は至ってシンプルである。

さて、ここで疑問が湧くのは、この《蛇》は<木>を《上昇する》ことによって<小径>を形成したのにもかかわらず、何故に<小径>は<頂上>を起点としているのかということ、さらにこれまでの注釈者たちは、何故にこの極めて重大な問題を考慮しなかったのか、ということである。*6

私が不勉強なせいもあるだろうが、確かにこの疑問に対する直接の回答を見た事はない。しかし多くの著者が、最初の文字であるアレフを『流出』の最初の部分であるケテル−コクマー間(即ち蛇の頭)に配置していること、およびソレに関連した記述から、ケテルからの『流出』を念頭においてその配置を行っている事が伺える。つまり、創造を行う神の視点から各セフィロトの間の関係たる『小径』を述べているのが多くの注釈者達の立場という事になるであろう。
しかし、何故我々、神ならぬ人間が神の立場からモノを見なければならないのだろうか?
神の創造のプロセスの秘密を探る、という意味では有効なのかもしれない。しかし、魔術修行者は、GDの位階の表が示している通り、生命の木を遡ることによって自らを高みに登らせようとする存在である。何故に神の視点を取らねばならないのか?

その疑問はひとまずおいて、ともかく、カバリスト達が<救世主> (MShICh=358)にあてはめた≪叡智の蛇≫ (NChSh=358)*7の動きに忠実に従うと、どういうことが起こるのかを見てみることにしよう。(後略)*8

≪叡智の蛇≫の如く木を上昇する、という目的に沿って生命の木の≪小径≫とヘブライ文字との関係を考察した結果、エイカドは中央の柱上の三本の≪小径≫に、ヘブライ文字の三母音であり火、水、空気の3つの元素に対応したSh、M、A、の三つの文字が配属された美しい照応を完成させる。
では、エイカドの試みは正しいのだろうか?それとも他の誰かが正しいのだろうか?
恐らくその問いは愚問であろう。古の書物に文字と≪小径≫の照応は書かれていない。そして図形に過ぎない生命の木に様々なイメージを結びつけ、瞑想し、有機的に連動する複合的な観念に育てていくのは個々の修行者なのだ。ならば照応が明示されていない事を逆手にとって、修行者の目的に合わせて木に付随するイメージの構築方法を変えていくことが許されるのではないだろうか。だとすれば、答えは一つではない。
人が神に近づく道は星の数ほどある、と或るインドの聖者はいう。だから神秘学の修行で用いる象徴体系は、細部まで細かく決まっているものよりも、ある程度の自由を選択する余地を意図的に残している方が応用の幅と発展性を持たせる事が出来る。カバラの生命の木もそのような余地がまだ残されている、故にまだその未来は開かれている、と私は考えている。

*1:http://www.sofasound.com/vdgcds/sllyrics.htm#5

*2:http://d.hatena.ne.jp/Hocuspocus/20070407#p1

*3:黄金の夜明け団による「タロットの8-11変換」も、その亜流または改変とも言えるクロウリーの『法の書』の「ツァダイは星にあらず」の記述に基づいた「タロットの4-17変換」も、この枠組みの中にある。

*4:例えば、『カバラの道−生命の木』ゼブ・ベン・シモン・ハレヴィ著、出帆新社(2004)、pp.216の図を参照。ハレヴィはセフィラの間の関係としての力の流れを重視しているが、その考え方は象徴体系の違うGD系の魔術師にも生命の木の各セフィロトの有機的な繋がりを考える上で参考になるだろう。

*5:『QBL』松田和也訳、現代魔術体系6、国書刊行会(1996)、pp.146より引用。

*6:前掲書、pp.146-148より引用。

*7:引用元のヘブライ文字はアルファベットの等価文字に置き換えた。数値はゲマトリアの結果である。各文字の数価はそれぞれM=40、Sh=300、I=10、Ch=8、N=50である。『NChSh』はヘブライ語で蛇を表す言葉。

*8:前掲書、pp.148より引用。