Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

世界の一部としての自分

「それ」は突然やってくる。

陽の暖かさと光が太陽の微笑みとして全身を包み、近くの池の水面と匂いが心身を優雅に撫でる潤いとうねりを運んでくる。肌に触れる空気は無数のシルフと手を取りながら踊っているかのように心地良く絡みつくが、バラバラではなく、皮膚感覚がそのまま空気に溶け込んで、見渡す限りのものに届きそうな一体感を与えてくれる。それでいて両足から伝わる大地の存在感は揺らぐ事無く、自分が確かに此処に居るという確信を与えてくれる。

意識も思考も鮮明で、透明な空の彼方から地平線まで自分の意識が広がっているかのような開放感があり、目に映るモノ全てに生命が宿っているのを感じる。道ばたの花や小石そして砂の一粒一粒までもが、意識を向ければその存在と感触を伝えてくれる。

自分の周りの全てのものが、まるでルーベンスの絵画のような力強くそれでいて何処か艶めかしい生命力を発しており、神の愛と感じられるかのような歓喜と高揚に全身が包まれる。そして自らもその生命の一部であり自分個人としての死が全ての終わりでは無いという直感が心の底からわき上がってくる。

魔術修行を行っている者の精神と肉体そして周囲の環境が調和した時、その者には上記の様な世界との一体感がもたらされる・・・と私の知っている魔術修行者から聞いた事がある。このような体験は色々な心理学の本でも取り扱われており、魔術だけでなく他の神秘学においてもよくある事のようである。

このような体験は、自我が発達しておらず自分と他者との区別の付かない乳幼児期の精神への回帰である、という説もある。確かにこれを期に、まるで赤子のように自分の思いは全て実現されるべきであると思いこむ人も居るらしいので、危険といえば危険かもしれない。しかし、赤子は自分以外のものを区別できないのでそもそも調和という概念がないのだが、他者を認識している大人は自らと周囲の調和としてそれを捉える事が可能になるのである。

そのような体験をした多くの人は自分の人生の中で理解した他者を否定する事無く、体験で得た歓喜を現実世界での精神的な糧にしたり、或いは現実の世界の中での同様の調和を目指そうとするだろう。このような一体感を感じる事が出来る人を増やす事によって、人と人との間の調和の実現を目指す人達も居る。
魔術や神秘学の修行をすることによってもたらされる最大の功徳とは、このような体験によって得られる前向きの心と融和の精神であろう。

しかし、そのような体験が人間の持つ問題の全てを解決する訳では無い。世界との一体感を感じたからといって、一昨日の飲み屋のツケが無くなる訳ではないし、隣の家の偏屈ジジイがことある毎に怒鳴り込んで来るのを止める事も出来ない。

「世界との一体感」を得る事とは「自らの精神と肉体が整のった」というスタートラインに立つ事であってゴールではない。「そこから先」こそが本番であり、今までの人生(そして魔術修行)で得たもの使って自らの力で切り開いていかねばならぬものなのである。