Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

萌え魔術−理論と実践(実践編;前編)

まず最初に断っておくが、萌えによって現在幸せに生きている人達は、以下の文章に書かれている事にはあまり関わらない方が良い。自然に幸せを掴むのが最高の魔術*1なのであって、余計な事をしてそれを壊す必要は全く無いからだ。萌えによって心の平穏と明日への活力を得て普通に生活する事ができれば、それ以上何を望む事があろうか?
不幸な人のみ以下を読み給え。
『萌え』が魔術に応用できるならば、頭の中が萌えキャラで一杯な逝き過ぎたオタク達*2の殆どが何故魔法使いになれないのかといえば、30過ぎまで童貞*3を保てないから・・・じゃなくて、能動的想像力の使い方が根本的に誤っているからなのだ。萌エネルギーを己の快楽の為だけに浪費してしまうから、そこからは何も生まれないのである。こういった力は或る種のストイックさが無いと無駄に消費されるだけになる*4
私が愛の日にでっちあげた『Liber C14』の儀式を例にとろう。項目の4番の行為は『萌え』には関係するが、出来上がったご飯の味には直接関わりが無い。しかしびんちょうタン萌えのエネルギーの一部を、備長炭を買ってきて丁寧に洗いお米をきちんと研いで炊く事に廻せば、萌えのついでにご飯も美味しくなって(゜Д゜)ウマーで、場合によっては他の人にも喜ばれる。ところが、逝き過ぎたオタクは4の行為に己の全精力を注いで(*´Д`)ハァハァしてしまう*5一方で、('A`) マンドクセと米をマトモに炊こうとしないのである。同人誌とか創作の方向に萌エネルギーが向かえばまだ生産的なのだが・・・*6。私は聖人君子ではないので必ずしも浪費が悪い事だとは思わないが、快楽を貪り過ぎない為の制限或いは戒律は必要だと思う。その制限により萌エネルギーを創造の為のエネルギーに振り向ける、というのが萌え魔術の原則である。
要は「萌え→(*´Д`)ハァハァ→萌え→(*´Д`)ハァハァ」というサルの自家発電ループを「萌え→ (`・ω・´)シャキーン→萌え→ (`・ω・´)シャキーン」という生産的なループに切り替える為に己に制約を課すのである。
この制限の為のキーワードは『神聖化』である。古代宗教と同じく『聖』と『俗』を分かち、『聖』の部分に創造的なエネルギーを廻し、快楽によって無闇に消費されないように『俗』なるものをそこから切り離すのである*7
例えばやや極端な例ではあるが、萌えキャラを想像上のBabalon*8にする場合、深紅のローブを着せるなど特別な区別を付けておく事により明確な意識の切換の手がかりを付ける事ができる*9。つまり『俗』の時には快楽として消費されていた萌エネルギーを、緋色のローブという条件付けによって、『聖』の方向へと振り向けるのだ。そしてこの条件付けを確かなものにする為には、『聖』の時のイメージを『俗』の用途には絶対に使ってはならない。
このような『聖』『俗』の切り分け、或いはケジメが萌エネルギーを使う際のいわば『梃子の支点』となるのである。
(続く)

*1:近代魔術中興の祖エリファス・レヴィも日本魔術界の理論派の長老うじゅぱ老師もそんなことを本に書いている。

*2:石黒直樹@歯車党氏が日本オタク大賞の席上で『ドブネズミ』と評した人達のこと。

*3:この『師匠』のようにメテオストライクが使えるワケではないが、魔法使いどころか既に妖精にクラスチェンジしつつある楳図かずおとか、切込隊長とか、三十過ぎの童貞神が実在する事を考えると、あながち与太話で片づけられない話であろう。勿論この両名は三十になる前から魔法使いであったが、ニコラ・テスラのような『異端の天才』タイプにはこのようなエピソードが多い。近代以降、このような萌エネルギーの研究はまだ進んでいないように個人的には思う。(ネオ)フロイト主義者の皆様には是非頑張っていただきたい。

*4:ちょっと前の2chオカルト板の魔術スレッドに「ギャルゲーやエロゲーのキャラを魔術に利用する」という内容の書き込みがあった。以前ドラクエ魔術を真剣に考えた事のある私(^^;は注目して見ていたが、結局『萌え』の力をどうやって利用するのかというところに説得力が無かった為、あまり説得力のある意見にならなかったのが残念である。

*5:これはカルト宗教の信者や一部の原理主義者にも共通する事である。更に、タチの悪いオタクや原理主義者は(*´Д`)ハァハァする事に執着する余り命がけでゴネるから尚更ヤバイのである。

*6:切込隊長が二次元風俗産業の湯舟から(いい湯加減で)叩き出せ、と言うのも当然だと思う。その手の趣味の無い人からは不快なだけでなくエネルギーと資源の無駄遣いにしか見えない。「どこが悪い」と考える方は、逆にどこに社会に認められるべきポイントがあるのか考えて欲しい。

*7:有我悟氏のblogに書かれた萌え魔術に対する疑問点「崇拝と萌えは微妙に違うと思う」「萌えの方がややフェテティッシュかも」に対する私なりの回答がこれである。フェチも突き詰めれば崇拝と変わらなくなるのだが、要は個人的欲望への執着から離れられるかどうかの問題だと思うのだ。例えば、宗教者にしばしば課せられる『禁欲』の戒律は、妻子に向ける萌エネルギーを信仰の対象に向ける事により、結果的に共同体の構成員全てに等しくエネルギーを向ける為のものと考える事が可能であろう。己の力を自分の為でなく全体にふり向けるからこそ尊敬されるべき存在なのであって、どこかの総本山が偉い役職に任命したから崇められる存在になる訳ではないのだ。

*8:クロウリーの魔術体系における女性の性魔術パートナーを象徴する存在。『緋色の女』とも呼ばれる。

*9:これが「通常のオルガスムスに達する事無く性的な興奮を宗教的な高揚に変化させる」という性魔術の基本的な業を行う際の意識上のスイッチになる。