Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

『日本の思想』丸山真男著:岩波新書*6

今、この歳になってようやく、丸山真男の「日本の思想」を読んだ。
丸山によれば、日本人には古来より「自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸にあたる思想的伝統は形成されなかった」との事。それ故、明治の為政者達は日本を近代国家として再編成するにあたって天皇制を国家の『核』に据えた立憲君主国家を創り上げた。それは日本の近代化という面で一応の成果を挙げたものの、第二次世界大戦の敗北によりその『核』は壊れてしまった*1
確かに日本人は良い意味でも悪い意味でも時流に敏感で変わり身が早い。『核』が無いので何でも受け入れる事が出来る為、他国の技術や文化を驚異的なスピードで吸収し独自のアレンジを施して自分達のモノとする能力は他に類を見ない。その半面、その時そう『である』技術や文化を切り取る事にのみ夢中になって、一つ一つの要素の間の歴史的経緯とそれに付随した関連性を断ち切ってしまう傾向がある。これによって丸山の言うところの『タコツボ型』文化、即ち各々のタコツボに潜り込りお互いの干渉を避ける事を良しとする状況が生じる。
何か新しいモノや理論がやってきたり生まれたりすると、例えば和洋折衷などの安易な理由を付けて新しいタコツボを作る人達・・・それに対して根拠の薄い情緒的反発をする人達・・・両者の間で論戦が交わされたかと思えば何の進展も無い内に何時の間にか有耶無耶になっている、というのは見慣れた日本社会の光景である。それは、黒船が来れば兎に角言いなりになって開国し、欧米列強を見てすぐに富国強兵に邁進し、戦争に負ければ天皇万歳からマッカーサー万歳になる、団結して困った事に対抗するよりは長いモノに巻かれて流される事を選ぶ国民性の表れと言っても良いだろう*2
科学技術、マルクス主義天皇論、オタク論、性表現規制言葉狩り・・・輸入文化、昔からある問題、或いは現在の雑誌やテレビで話題になっている殆どの全ての事柄がこのパターンに嵌っている。それらの大半は本質的議論が為されないまま、有耶無耶の内に安定したタコツボとなったり何時の間にか消えていたりする。また、したり顔で語る『知識人』『識者』の殆どは、まるで鋳型から出てきたように丸山が1961年に描いた言動のパターンを21世紀の今もそのまま繰り返す。そして何もかも有耶無耶のまま黒船が来るまで進展のない状態が続くのだ。
この状態から脱却する為の方法は、丸山が指摘したように、『である』事を重んじる論理から『する』事を重んじる論理に変える事だ。それは、目的を達成する為に、常に誰に何が出来るのかを検証し、タコツボを出て他者あるいは他分野と必要な関係を結んで物事に取り組む近代的論理の実践そのものである。そして、それを続けることによって互いに歴史的経緯と関係性を失わない『ササラ型』の文化が形成されるのである。だが少数の例外を除いて、殆どの日本人は未だにこの日本的パターンの呪いから脱却出来ない。国際社会が近代的な『する』事の論理で動いている現在、世界の中での日本人のあり方が問われるべきところであろう。
言うまでもなく、魔術も輸入文化の一つとしてこの典型的日本的パターンを辿っている。更に滑稽な事にはサロン的馴れ合いしか出来ない烏合の衆が物知り顔で『魔術的意志』について語っていたりするのであるが、Thelema、即ち真の『意志』とは外力によって右往左往する粉塵が持てるものではない。『魔術的意志』とは星々、即ち力を持った王達だけが持ちうるものである。王達の間には、星々の間に働く重力のような互いの力によって形作られた関係はあっても奴隷達のような情による馴れ合いなど存在しないのだ。「"Do" what thou wilt shall be the whole of the Law.」とは『する』事の論理に他ならない。
西洋魔術の本を読むと東洋思想礼賛的な文章に出くわす時が多いが、あれはあくまでも西洋人から見た視点であることを忘れてはならない。ディオン・フォーチュンが「神秘のカバラー」に書いたように、西洋人には西洋人の、そして日本人には日本人の克服すべきカルマがある。西洋人の書いた魔術書に書いていない日本人の問題点を如何に意識し変えていくか?それは日本の魔術修行者が自力で解決せねばならない課題であろう・・・それが出来ればの話ではあるが・・・。

*1:最近の靖国問題を巡る報道を見ていると、壊れかけとはいえ、いまだに天皇制が強固な『核』としての役割を担っているのが判る。しかし最早昔のように”単体”で強固な『核』となり得る存在ではない。

*2:マッカーサーは「砂のような民族」と評していた。