Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

『喪男の哲学史』本田透著;講談社 *1

これまで偉大な哲学者の誰が結婚したか。(略)彼らは結婚しなかった。のみならず、彼らが結婚した場合を考えることすらできない。結婚した哲学者は喜劇物だ−これが私の教条である。*1

上記のニーチェ先生の血の出る様な咆吼からも判る様に、哲学とは本来モテない男、或いはモテを拒否した男による真実の探求の道であった*2
そんなモテない、或いはモテを拒否した男達、すなわち喪男(モダン*3)達の苦闘の歴史として哲学史をとらえたのが本書である。

本当の哲学はモテない苦悩から始まるのです。*4

本書は「モテない男*5が如何に己の苦悩から脱却するか」という具体的なテーマに沿って書かれている為、多くの哲学学者が書いた凡百の哲学入門書のようにピンぼけにも衒学趣味にも陥らない、判り易い血の通った哲学入門書となっている。そして何よりも重要なのは、エンターティメントとして笑える本になっている事で、オシャレ系哲学書紛いの駄本に書かれているような女々しい自己憐憫と自己陶酔の洪水から逃れることができている、という事だ。
お堅い人から見れば巫山戯ている様にも見える切り口だが、基本は外していない。

少し硬く言うと、「自我をアイデンティファイする基本原則」を自ら作り上げて言語化しようとする運動こそが、哲学だと言えるのです。*6

著者は二次元の世界=想像の世界で各個人が自らを癒し見出し自立する方法を見つけることが、喪男の立場から出発した(自然哲学を含む)哲学の行き着いた帰結*7であると説いている。細かい所で異論はあるが、大筋ではその考え方は間違っていないと私も思う。

「自分で自分を救う」という覚悟が、自立が必要なのです。*8

名だたる孤立した喪男哲学者たちは、喪のエネルギーを三次元のオネーチャンにではなく、ピストン運動に要するカロリーにではなく、ましてや第三帝国の建国でもなく、広大な二次元の世界へと注ぎ込んだのです。。その結果、様々な発見や発明、あるいは創作を成し遂げることができたのです。
これはある意味、大乗の道です。
彼ら孤立した「喪男哲学者」たちは、己の苦悩を糧として多数を癒そうとしたわけです。*9

だが、「モテない男の救済」という本書の判り易いストーリー故に、そこから外れる要素が排除あるいは矮小化されてしまっている*10。商業出版という多くの制約がある中では仕方のない事かもしれないが、その為に、モテを捨てた喪男の思考が何処まで遠くへと高みへと飛翔できるか、という喪男の最高の側面の記述がやや疎かになっているのは非常に残念である。
例えばゲーテファウストのストーリーの結末の紹介はこんな感じだ。

で、まあ散々好き放題やったファウストは当然死んで地獄に落ちるわけですが、最後の最後に、グレートヒェンが天上から現れて、ファウストの魂を救うのです。(中略)ゲーテはグレートヒェンという萌えキャラの愛によってファウストは救済されたと考えたのです。*11

これにはゲーテや哲学の専門家でもないど素人の私でもエエェェ(´д`)ェェエエ!となってしまう。だってファウストが地獄に堕ちる前に天使が迎えにきたし、グレートヒェン(とかつて呼ばれたもの)はファウストが昇天する時に出てきたのに*12・・・そんな枝葉でなく、もっと物語の骨子についての話をするならば、物語全編を通したキーワードである「とまれ、おまえはじつに美しいから。」という、『北斗の拳』におけるラオウの「我が生涯に一片の悔い無し!」に相当する台詞についての記述が全く無い、という事が問題なのである。
本田氏風に言えば、現実の三次元女との付き合いでは悲劇となり、二次元の神話キャラに萌えて脳内夫婦・脳内家族を作っても上手く行かず、政治・国家萌えとなり多くの人々に利益と悲劇をもたらすようになった悩めるファウストが最後の最後に到達した境地である。個人の立場を超えた、いわば人類萌え或いは世界萌え*13とでも呼ぶべき境地をファウストは人々の生きる営みの中に見出し、それに対して「とまれ、おまえはじつに美しいから。」と満足して死んだのである。この台詞をファウストの口から吐かせる為にメフィストフェレスは散々ファウストを『萌えのセカイ』に引きずり込もうとしていたのだが、ファウストはそれを退けより高度な萌えの境地に自ら至る事によって結果的に最後の救いを得たのである。それこそが喪男大作家ゲーテが最終的に到達した境地ではなかろうか。本田氏のWebページにあるファウストの下巻の要約には違和感は無いので、明らかにワザとやっているのだろう。
また、朝永振一郎が『鏡の中の物理学』で述べているように、科学における研究の動機は「それが何かに役に立つから」ではなく純粋な好奇心・知的欲求からくるものなのだ*14。だから少なくとも私にとっては、本書における自然哲学から科学に至る流れについては、「人工的に恋人を作り出す」という目的に拘り過ぎて、木に竹を接いだような印象がある。
更に、ニーチェの言う所の真の哲学者はこの「世界を知りたい」という段階の更に先にある。

哲学的労働者や一般に科学的人間を哲学者と混同することを結局はやめるべきだ、と私は頑強に主張する。(中略)真の哲学者を教育するためには、彼自身も、その従僕である哲学の科学的労働者が立ち止まり、−またはたちどまらなければならないそのすべての段階にかっては立っていたということが必要であろう。*15

知りうる限り世界を知った上で己の意志で世界を作り変えること。これは『ファウスト』におけるゲーテの境地、干拓や堤防で自然と闘い生を得ようとする営みの延長線上にある。現代ならば当然、環境問題的視点も入るであろう。そのような人類全体・世界全体を俯瞰した視点と向かうべき方向性を持って行動する人間こそが『超人』なのであって、単に他人の言う事を聞かない我が儘な人間は『超人』ではない。しかし本書のその辺りの記述は「他人に迷惑をかけない」という奴隷道徳的な視点で無難にまとめてしまっている*16。もしも奴隷道徳的視点から「他人に迷惑をかけない」為に個人的な『萌え』のセカイに安住する事を『個人の自立』だと勘違いするならば、それは自らを奴隷として縛る事に他ならない。ファウストギリシャ神話萌えのセカイは、メフィストフェレスファウストの魂を捕らえる為に作り出した幻覚なのである。
という訳で本書はニーチェの言うところの奴隷と高貴な生き方の分水嶺に位置する本となっている。本書を「自分ではなく本田透の考え」として安易に受け入れず(或いは哲学をネタにした漫談&ガイドとして)、本書に出てくる哲学者達の著作を読んでその熱き魂に触れる意気込みを持つ者は真の喪男としての成長の道を歩むことが出来るだろう。しかし自分で自分を救う意気込みを持たない無い者は、本書を読むことで、ナチスや中世キリスト教徒のようなルサンチマンに満ちた暴徒とならずに、己の観念の奴隷として他人に迷惑をかけず静かに一生を過ごすようにしていただきたいものである。

57. 臆病者も全て軽蔑せよ。戦おうともせず遊びに興じる職業軍人、全ての愚か者どもを軽蔑せよ!
58. だが、鋭敏なる者や誇り高き者、王者に相応しき者や高尚なる者、汝らは同胞なり!
59. 同胞として戦え、汝ら!*17

*1:F.ニーチェ著「道徳の系譜」第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」第七節(岩波書店、1940年)、pp.133。

*2:鷲田小彌太著「はじめての哲学史講義」(PHP新書、2002年)の巻末にある「【資料】哲学者達のさまざまな死」に出てくる哲学者達の生涯独身率の高さでもそれは裏付けられる。

*3:本田氏の定義した読み仮名である。本田氏のWebページによればモダンとは、「現実に不満を持ち、その現実に立ち向かうまたは飛翔するために想像力=知性を発達させる男」とのこと。

*4:本書pp.13.

*5:というよりも著者の本田氏自身、と言った方が良いかも・・・

*6:本書pp.15.

*7:勿論それは本田氏が辿り着いた結論である。

*8:本書pp.313.

*9:本書pp.314.

*10:冒頭の『ダビンチ・コード』の話でバチカンが怒っている理由からして微妙に違う。

*11:本書pp.128-130.

*12:もっとおちゃらけて言えば、メフィストフェレスファウストを迎えに来た天使達に「うほっ、いい天使!やらないか?」とうっかり萌えてしまったのがファウストの魂を逃してしまった直接の理由である。つまり「ショタ(の尻)は喪男の魂を救う」という、深遠なようで色々な意味であんまり認めたくない哲学的結論を導き出す事も可能なのだ。

*13:本田氏の言うところのラノベセカイ系とは異なるものである。ラノベの「セカイ」はあくまでも個人のセカイから外に出ていない。

*14:http://cruel.org/cut/cut199902.html

*15:F.ニーチェ著「善悪の彼岸」第六章第二一一節(岩波書店、1970年)、pp.183。

*16:他人に迷惑をかけるから、と、愚かで間違っているから、の違いは大きい。

*17:Liber AL III:57-59.