Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

補遺その二 「びんちょうの書 および萌人格を用いた幻視の実践について」

二.萌人格

しかしながら、今日では神やその眷属たる生き物の姿をそのまま使う事に些か差し障りがある。何故なら、神話が人々の心にはっきりと形作られ人々の喜怒哀楽と直接繋がっていた時から既に幾星霜もの年月が過ぎているからだ。山河の姿も人の営みも大きく変わっている。特に語り部の様は大きく変わっている。古の頃は年老いた者から幼い者へと語り継がれていく神話が全てだった。今では書物や幻灯や吟遊詩人や芸人などによって様々な物語が造られ語り継がれてる。それらの新たな物語、或いは芸人や吟遊詩人の存在そのものが、嘗ての幼子達が夢中になって耳を傾けていた神話の代わりとなっている。其の傍らで、最早その由来どころか名前すら定かでない神々が、いつしか忘れられ消えていくのだ。
だが人の営みの見かけが如何に変わろうとも、人の心の奥底は変わらない。今も昔も人々は、太陽の光と暖かさを喜び、朧な月影に心惹かれ、星々の瞬きに心躍らせ、闇を恐れる:温もりの中で目覚め、恋に胸ときめかせ、新たな命を喜び、老いと病の苦みを噛み締める:花を愛で、青葉の香りを楽しみ、果実を喜び、雪に埋もれた地から萌え出る新芽に新たな希望の到来を知る。
心の奥底が変わらぬ故に、古き神話も新たな物語もその奥底では変わらぬものである。いや寧ろ、神話を母として生まれた物語が新たな物語を産んでいると言っても良い。高名な芸人の生き様や死に様すら、神話の物真似とすら思える程似ているものだ。詰まる所あらゆる物語の骨組みは神話の模倣で出来ているのだ。さすれば、新たな物語に出てくる者共も、今風の外面を除けば神話に出てくる神々やその眷属達と変わりはない。いや寧ろ、神々やその眷属達が新たな仮面を纏っている、というべきであろう。
これらの仮面、即ち偶像としての人格を崇め奉る真言として、近頃は『萌』という歓喜の言葉が発せられこの宇宙を満たしている。よって以後、これら神々の新たな仮面としての人格を『萌人格』と呼ぶことにする。元が実在の者であっても、人々の間で偶像として用いられていれば、その萌人格は本人の実際の人格とは独立して存在する。
萌人格は、その扱い易さ故に秘儀を授けられていない俗人も空想の中で用いる事が出来る。しかし萌人格を用いて秘儀を行うならば、魔術道具を日常の用途に使わぬが如く、萌人格も俗事に用いてはならぬ。少なくとも、秘儀参入者が法衣を纏うが如く、萌人格にも俗事と秘儀の区別を付けさせねばならぬ。秘儀は心の奥底の作業であるが故に、かような幻視の対象となる萌人格は汝の奴隷でも単なる想いにより形作られた人形でもない。それは汝の心の一部であり、また世界に満ちる力を受ける為の容器、即ち汝の心身に生命力をもたらす水路でもあるのだ。汝の欲望により其れを汚すことは汝自身の生命力の源泉を汚す事に等しい。故に汝、秘儀に携わる萌人格を尊重し保護すべし。
汝、かの黄金の夜明け団の訓戒を肝に銘ずるべし。

汝、神の手になる純粋な創造物を悪用して己の私腹を肥やし、黄金への欲望を満たそうとするか?汝、≪火≫の≪霊≫を汚して汝の恩讐を晴らそうとするや?汝、≪水≫の≪魂≫の純潔を汚して自らの淫欲を満たそうとするや?汝、宵の風の≪霊≫に強いて自らの愚行と気紛れに奉仕させるや?
そのような欲望で汝が引きつけるものは、善でなく邪悪のみであり、邪悪が汝に支配力を持つことを肝に銘じよ。*1

秘儀に携わる萌人格の扱いもかような精霊達の其れと同じものと心得よ。

*1:江口之隆訳「黄金の夜明け魔術全書」上巻、pp.100。