Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

『つっこみ力』パオロ・マッツァリーノ著:ちくま新書*4

この本の帯に書かれている「愛と勇気とお笑いと。」という煽り文句がこの本の全てである。つまり、カバラの生命の木で言うところの慈悲の柱の『愛=ゲドゥラー』と峻厳の柱の『勇気=ゲブラー』の調和によってもたらされる『お笑い』こそがティファレットに象徴される『獣=サタン=救世主』という事である。
本書は、論理やデータの恣意的乱用に対して論理的正しさだけに頼って反論しても小難しくて誰も聞かないから、論理に判り易さと面白さを伴った『つっこみ力』を付けて対応しよう、という本である。生命の木で例えれば、コミュニケーション(イエソド)の場に、論理(ホド)と感情や情緒(ネツァク)がバランス良く伴うと『面白さ』という活動的存在(ティファレット)が生じ、それが中心となって物事が動いていく、という事である。
よく考えてみれば一見論理だけに見える批評や批判においても、批判対象を無闇に怒らせないような言い回しや論理展開や配慮するのは当たり前なのであり、出来るだけ純粋な批判に留めるか笑いを取りに行くかの匙加減は相手との力関係と自分の良心とその場の空気によって決まる。そういう意味では本書はコミュニケーションに於いて当たり前だが見過ごされがちな事を再確認するには良い本であろう。
しかし、本書に於いて最も重要なのは、題名に反してツッコミよりも寧ろボケに関する記述であろう。

つまり創造力は、ギャグを言う能力、ぼけの能力です。社会が本当に求めているのはぼけ力のほうなんです。*1

世の中は価値を減らすだけの「つっこみ」よりも付加価値を創造する「ぼけ」を求めている、という事である。
楽家を例にとってみよう。事実上新しいメロディが枯渇している作曲の世界では、頭の中に浮かんだメロディの起源がアフリカ民謡であるとか数年前のヒット曲に使われたメロディであるとかいうツッコミよりも、それを天啓或いは己の才能が産んだものと信じて、平凡な耳慣れた音楽にならないように他のメロディを組み合わせたりアレンジする為のモチベーションに出来るボケの方が遙かに貴重で重要なのである。
或いは、ひたすら客観性と論理を求める科学の世界においてすら、間違いや勘違い或いは思いこみが新しい発見に貢献することは多々ある*2

しかし、だからといってだれもがぼけ力を鍛えられると思ったら、大間違いです。というのも、ぼけ力・創造力は、天賦の才に負うところが大きいんです。努力すれば誰にでも身につけられるというものではありません。*3

しかし、ツッコミなら、凡人や秀才でもなれるのです。*4

本当にそうだろうか?確かに素晴らしいボケは天才・異才の所行と言っても良いかもしれないが、逆にどんなに頭の良い人でも、「To error is human*5」、人間である限りは誤りや思い違いから逃れることは出来ない。一方、某ミスタープロ野球のような天然ボケの人には細かいツッコミは期待できない。ボケもツッコミも、どちらも人間の持っている能力であると同時に、ある程度のレベル以上のものは才能の問題であり、個人差が大きいと言わざるを得ない。つまり訓練してみないことには何とも言えない性質のものではなかろうか?そこでオカルト修行の出番となる。
神秘体系と感覚遮断や幻視の技術あるいは薬物が切っても切れない関係にあるように、オカルト修行とは本来効果的にボケる或いは狂う力を得るために修行するものである。また、ボケによって根拠のない妄想や狂気を連ねたところで、最初に述べたのとは逆の意味で他人には相手にされない。神託を受ける巫女には神託をチェックする審神者(サニワ)が付くように、妄想は適切な論理のツッコミを受けて初めて創造の源泉となるのである。それ故に多くのオカルト体系ではボケとツッコミの両方の力を訓練するように編成されている事が多い。
また、ボケ役はツッコミ方を、ツッコミ役はボケ方を理解していると、場の空気やストーリーの流れやタイミングを損なわずに漫才を進行させる事ができる。この進行能力は、集団魔術儀式の実行司官には不可欠の能力である。儀式中の予期せぬトラブルを、儀式を中断せずにサラリと流すにはアドリブでボケ−ツッコミが自然に出来なければならない。
クリフォトの状態でない正常な生命の木においては、慈悲の柱は『ぼけの柱』、峻厳の柱は『つっこみの柱』としての機能を象徴しているのだ。この宇宙は神が(まだ存命の頃に)作り出した壮大な漫才なのである。そして中央の柱の中心にしばしば例えられるナザレの人は命を張ったネタで伝説となった紀元一世紀の江頭2:50である*6
2ch辺りでは日本の魔術関係者のギャグの寒さがしばしば物笑いと嘲りの種になっているが、やはり周りから単なる笑いモノになるだけでは真の魔術師とは言えまい。ディオン・フォーチュン*7が『神秘のカバラ』で述べたように『ヘルメスの道』は『つっこみの柱』がメインであるので、私のような小者も含めて理屈っぽい小煩い連中が多いのはある程度仕方の無い事かもしれない。だが、生命の木がボケとツッコミで成り立っている以上、日本の魔術関係者達はもっと笑いの取れる芸人・・・もとい魔術師を目指して、もっと積極的に『ぼけ力』(或いは狂人力)を身に付けるよう意識すべきではなかろうか。
ボケこそ法なり。ツッコミの下のボケこそが。

*1:本書101ページ。

*2:人造ダイヤの製法の発見などはその典型であろう。勿論その何十倍何百倍もの失敗や間違いやトンデモ科学があるわけではあるが・・・それらは業界が健全であれば何れ淘汰される。

*3:本書101〜102ページ。

*4:本書102ページ。

*5:"To error is human: to forgive, divine." by Alexander Pope. 現在では医療事故の原因追及と対策を考える上で最早欠かすことの出来ない真言である。

*6:トルコでの事件の際にエガちゃんは死ななかったが、ナザレの人は、十字架の上で己の芸を貫き、死んで伝説となった。エガちゃんには死んで欲しくないが、この一点だけを見てもナザレの人が現在のエガちゃんを上回るスケールを持つ芸人・・・もとい偉人であることは間違いない。

*7:この人は、一見理知とツッコミの人に見えるが、著書を良く読んでみると電波ゆんゆ・・・もとい、偉大なるボケの人である。同時代の他の神秘家達、ブラバツキーもグルジェフもシュタイナーもクロウリーも、常識的観点で見れば(直ちに死刑にならない程度の良い塩梅で)狂っている人達ばかりだ。逆にクリシュナムルティ位マトモだと、正しいのは判るが面白くない。