Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会:東 浩紀 著;講談社現代新書

某所で書き込んだネタ*1をもう少しまとめようとして『萌え』について調べていたら、この本が色々なところで紹介されていた。FraterCSさんのblogでも推薦?されていたので買って読んでみた。
「俺は二次元美少女に萌えたいんだぁぁぁぁ!!!」という東氏の血の慟哭が聞こえてきそうな本だ。
東氏は思う存分萌えて良いから、(*´Д`)ハァハァする合間に以下の2つの疑問について考察してくれたらちょっとだけ嬉しい*2

  1. 「アイデアのつくり方」(ジェームス W.ヤング著、TBSブリタニカ*3に書かれているように、新しいアイデアは既存のモノやアイデアを組み合わせて作られるものであり、組み合わせるモノの間の「関係性」*4を見つけ出す事が新しいものを生み出す時には求められる事なのだ、という認識は昔から多くの人が持っていた。ところでアマゾンの書評で「東氏はデータベースが判っていない」との批判があるように、東氏のモデルのデータベース(以下DB)は内部構造が明示されておらず、ひたすら平板な構造であることばかり強調されている。東氏のモデルのどこに個々のデータの間の『関係性』が含まれるのだろうか?
  2. 現代日本のような消費社会における人間精神の「動物化」が過去のポストモダンの思想家達の予言通りであった事は認めるとしても、それで議論が終わってしまっては単なる現状肯定にしかならない。本来「学者」とは、炭坑のカナリアの如く未来を見越して社会の中で警鐘を放つのが役割ではないだろうか?「動物化」で良いのか?という話をするべきではないのだろうか?

1に関してもう少し説明を加えよう。DBの構造はDBの性能に直結する根幹部分であり、この定義によってDBで何ができるのかが決まると言って良い。様々なデータ間の関係性を巧く反映したDB構造が実装されなければそのDBは使い物にならない。この本の2章の6節では、村上隆氏には「オタク遺伝子」が流れていない、との議論があるが、これは村上氏の作品の要素の組み合わせ方が「オタク的」でない事を意味している。まさにここで議論されている事こそが『萌え』の(更には人間精神にある)『構造』への糸口ではないだろうか?ただ『萌え』要素を無造作に取り出すだけのフラットな構造ではなく、『萌え』を作り出す萌え要素間の『関係性』を分析してはじめて『萌え』をポストモダン的手法で捉えたと言えるのではないだろうか?
2に関して言えば、スポーツや医療、科学などの世界の最先端では、そこに関わる全ての人間が互いに緊密な関係性を意識しなければならない方向に進化している。何故なら日増しに高度化・複雑化していく必要な知識・技術に比べて、現実には個人の持つ能力・時間や資産は余りにも乏しいからだ*5。少なくともチームでの役割を受け持っている間は、チームの個々のメンバーには動物化している余裕など無い。
幸運の上に幸運が重なって出来た今の日本の豊かな社会は、総人口の減少により間もなく衰退の時期を迎える。その時には、豊かさを支えていた日本の社会の中や国外・世界との『関係性』を、国民一人一人が嫌でも意識しなければ上手く動かない未来が待っているだろう。学者が「オタク」について語るならば、その未来を見通して新しい人間像、或いは「オタク」像に繋がる分析を提示して欲しいものだ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/arugha_satoru/20041219#p1 次の記事に詳しく書くつもり。

*2:無論、私如き素人の疑問に直接答えてくれる、という期待はしていない。

*3:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4484881047/

*4:それこそが、まさにクロウリーの言う「魔術の輪」なのだ。手前味噌ではあるがhttp://d.hatena.ne.jp/Hocuspocus/20040901にもう少し詳しく書いた。

*5:現代思想の人の本を読むと、あたかもマルクス・エンゲルスの亡霊が語っているかのように、今の社会が生産性が無限に大きくなった社会のような気がしてくる。勿論気のせいだ。現実には、特に最先端にいる人達は、問題の困難さに対してあまりにも乏しい知識・技術・時間・コスト(そして多くの場合周囲の無理解の中)で戦っているのだ。