義人(ツァディク)と凡人
最近、時代劇画の巨匠、平田弘史の作品にちょっとハマっている。
己の信念を貫くために命を捨てることも全く厭わない武骨で頑固者揃いの平田作品の主人公達は、時には潔くもあり時には傍迷惑でもある。
だが、短編集「反逆の家紋」*1の最初に掲載されている「吉田松陰」の冒頭に出てくる吉田松陰は、平田作品の他の主人公達と比べるとちょっと情けない所が目立つ。江戸幕府に無断で海外渡航を企てるまでの松蔭の半生は、学問の才能があったとは言え挫折と泣き言だらけ。命を賭けた海外渡航にしても、理想半分、個人の事情半分、といったところである*2。
ところが、幕府に捕らえられ全てを失ってから松蔭は変わった。個人としての栄達を捨て、ひたすら生きた学問を説く事に己の道を見出すようになったのだ。そしてその学問は多くの人々を啓蒙し、松蔭の死後も人々を動かして江戸幕府を倒す力となったのである。
この「吉田松陰」を読んでから下記の記事を読むと・・・
http://logsoku.com/thread/news19.2ch.net/newsplus/1123773905/
・・・あやまれ!吉田松陰にあやまれ!(AA略)
両者の違いは命の賭け方だと私は思う*3。個人の命を超える事が、凡人を超えて義人になるための重要な条件なのかもしれない*4。