Tweiiter of Hocuspocus_Mage The Starry Abode

『萌える男』本田透著:ちくま新書*3

エンターテイメントの色が濃かった本書の著者の処女作エッセイ『電波男』をより一般向けにややフォーマルに書き直したものである。
電波男』/『萌える男』の内容自体は、著者自身が書いているように昔からの文学*1の流れに沿ったモノであり、色々な所で論じられているのでここでは省略する。
ただし魔術的に注目すべき点がこの本には2つある。『萌えによる救済』と『萌える男自身の萌えキャラ化』の2点である。
先ずは『萌えによる救済』であるが、著者自身が体験したアニメ視聴及びアニメキャラの空想による精神の救済*2は、中世のキリスト教神秘主義者達の修道院に於けるキリストや聖母マリアや天使の観想による神秘体験の現代日本版と言えるだろう。昔は心の救済に要する想像力を補助する為の物語やイメージを伝えるメディアは宗教上の共有財産としてしか存在出来なかった。しかし技術の発達によって現代では個人がそのようなメディアを所持する事が可能になったのである。つまり今の社会は個々の人間の魂を救済する為の環境が整った社会であると言えるだろう。後は個人で救済の為の物語を如何にして構築するかの問題である。

つまり萌える男とは自分自身の内側に「神」を発見する能力を持った人間なのである。*3

その自己救済の為の鍵となるのが『萌える男自身の萌えキャラ化』である。

シスタープリンセス』の妹たちに萌える男は(中略)最初は自らを兄に同一視するのであるが、次第に妹と自分をシンクロさせていくことになる。(中略)ユング的に解釈すれば、自らの内面世界にアニマを求め、アニマと一体化する事で癒しを得る事が「萌え」の最終的な目的だと言えなくもない。*4

空想の中で自ら性を超越した存在となり萌えキャラとの同一化を目指すその構図は、魔術に於ける聖守護天使との交渉と『神への合一』への過程と、日常と異なるペルソナを被るという点で似たものがあるように思える*5
だが、この本に書かれた事だけではオタクの救済にはまだまだ不充分だ。
観念の重要性を訴える本であるから致し方無い面はあるが、観念に重きを置きすぎて肉体を含めた物理的次元での調和についての具体的方法論が欠けているのだ。例えばニーチェがあれだけ「力への意志」に拘るのは、感受性が非常に強く且つ頭の回転の速かったニーチェにとって、肉体がもたらす様々な感覚は絶対に看過できないものであり、肉体は生存の為の強さを本能的に求めるものであるが故に、それを肯定せねば生を肯定できない、とニーチェが認識していたからであろう。『萌える男』ではこの段階、即ち身体性と萌えとの関係についてあまり語られて居ない為、本来その次の段階である萌えによる家族の再生や社会への萌えのフィードバックについての記述も残念ながらもう一つ説得力がない。著者も「僕たちは三次元で「萌える」事が可能になるかもしれないのだ。」と結んでいるので、恐らくこれからの課題なのであろう。
このポイントを克服した時、萌えオタクは何物にも依らず自らの萌えの力で永劫回帰を受け入れ、古き神々を踏み越えて超人として進化の階段を昇る事が出来るだろう。
はたして萌えオタクは超人と成り得るか?それは神という既に死を宣告された存在は勿論、超人たり得ぬ人間にも全く判らないことだ。

*1:もてない男の物語−喪男文学と本田氏は呼ぶ。

*2:同書204〜206ページ。『電波男』のあとがきの方が詳しいので興味のある方はそちらをどうぞ。

*3:同書215ページ。

*4:同書151ページ。

*5:非日常的ペルソナの利用というのは神秘学における常套手段である。ただし、人格というモノは心の中だけで完結するものではないので、聖守護天使を単なる自分の理想像と見なす事には問題がある。